德原修一 1973年(S48)法学部政治学科卒
滋賀支部のお誘いもあり3年ぶりにスプリングフェスタに参加 しました。新型コロナの終息も見通せない中の開催で、雨模様の中例年のようなイベントや模擬店もなく静かな催しでした。
しかし、桜が満開で50年前と同じ「関大の春」でした。 新しい 学舎で様変わりしたキャンパスをぐるっと歩き回り、昔自分が学んだ学舎を探してみました。残っている学舎を見て懐かしく思いまし た。
私が入学の1969年は全国的な学園紛争の真っ只中で、入学当初こそ静かでしたが、すぐに関大も紛争が起こり、全学ストライキや 学舎封鎖が起き、長い間授業も中止されました。
貧乏学生の自分は、学費捻出のため、長期休暇や大学がストライ キで休みになるたびに日雇いアルバイトに忙しくしていました。昼食も弁当持参か、学食の100円定食かカレーライス、うどんでした。校門近くの西村食堂にも行きました。
在学4年間で、一度も大学祭は開催されず、今の学生諸君のようなキャンパスライフを楽しむ機会もありませんでした。
当時法学部1学年の数は1000人以上で、大半の講義は数百人の大教室で行われ、少人数の講義は英語、ドイツ語クラスくらいしか ありませんでした。そのため一緒のクラスの名簿で「た」行の数人くらいとしか親しくする機会がありませんでした。しかし、その数 人とは今もささやかながら交友関係を持つことができています。校友会の役職をされているT.Y君や旧姓T.Hさんもいます。
もう一つの思い出は、卒業6年後、仕事をしながら、天六の二部社会学部に学士入学したことです。自分より10歳近く若い人たち と一緒に学べたことが楽しかったです。一部の千里山学舎と違い、 少人数の講義がほとんどでした。家族社会学の前田ゼミにも参加し、 法学部生には行けなかったゼミ旅行にも何度か参加しました。 大学祭も二部では経験できました。本職の仕事が忙しくなり、職場との当初2年間通学の約束もあり、残念ながら二部は単位不足のため3年間で自主退学になりました。
私にとっての関大は、特に強い母校愛というのはありませんが、今の自分を築いてくれた人生の学び舎といえると思います。